智証王の墓から白樺の樹皮に天馬が描かれた障泥が発見された。しかし当時の新羅には白樺は生育していない。この木はシベリア、バイカル湖畔などの高地に密生する高木である。北方産の白樺の樹皮で乗馬用の障泥を作らせた新羅王は誰?智証王とは一体何者か。
「天馬塚発掘」の記事は一面トップ扱いの大ニュースで、当時韓国日報の文化部長だった李寧煕(イ・ヨンヒ)氏はランチタイムなしの毎日に追われていたという。韓国2大古史書の『三国史記』『三国遺事』を原文で読み進めるために、韓国式万葉仮名である「吏読(イドウ)」を独学で勉強した。齢42になってのこの挑戦は実に辛いことであったが、この吏読の勉強によって、日本の万葉集を訓むことができるようになったことを考えると「辛さは未来を呼ぶ」というべきか、しみじみ運命を実感する時があるとも語っている。
李寧熙氏は後に韓国の国会議員となり、日本の歴史教科書について調査する日韓国会議員団のメンバーとして活動中に『万葉集』が古代韓国語で訓めることを発見、後半生を「万葉集の解読と古代日本史の解明」に捧げられた。日本に生まれ7歳まで日本で暮らし、日本語も韓国語も自在なバイリンガルであった李寧熙氏ならではの運命といえよう。天馬塚の主人公智証王がもたらした李寧熙氏の運命。智証王は果たして生粋の新羅人だったのか。それともバイカル湖あたりから白馬に乗り延々と新羅に乗り込んだ外来集団のボス、もしくは「製鉄、製金の優れた技術を有する」古朝鮮系騎馬集団の指導者だったのか。
智証王は登極後、早々と大改革に向けて動き出す。まず502年殉葬制を廃止する。503年には国号を「新羅」と改め、王の尊号も「麻立干」から「王」に替える。更に製鉄を王の権限下に置く「迎日冷水里新羅碑」を建立し、「鉄と塩」の国家専売政策をしく。これまで鉄作りを一手に受け持っていた昔脱解系の製鉄集団はやむなく日本の三輪山に進出、移動することになる。『日本書紀』にある「幸玉奇玉」の日本行きである。「幸玉」は鉄器づくり、「奇玉」は製鉄技術者を指称した。一方、この500年に百済も鉄作り集団を日本に送っている。
562年智証王の孫新羅第24代真興(チヌン)王は自ら軍を指揮して金官伽耶を攻める。金官伽耶第10代仇衡王はこれに応戦するもののあっけなく敗北する。やはり金官伽耶は国をあげて日本に進出しすぎたのか。ついに亡国の悲運を迎えることになった。真興王は534年7歳で即位し、新羅を飛躍的に発展させた名君だった。日本で鉄鉱石の採れる広大な土地、吉備を占拠していた金官伽耶は「本国」を失った。
金官伽耶の王孫たちは、新羅の都徐羅伐に転居。この王孫たちの中に金庾信がいた「三韓統一」の夢を新羅に抱かせた英雄である。とすれば「三韓統一」は金官伽耶が成し遂げたことにならないか。これこそがいわゆる「負けるが勝ち」と言えるだろう。金春秋、と金庾信、淵蓋蘇文と文武大王、この4人の誰か1人でも欠けていたら「三韓統一」はならなかっただろうし、日本の古代律令政治の完成はなかっただろう。また世界初の長編小説、しかも女流の『源氏物語』も世に出なかっただろう。