鉄鉱石は古代韓国語で「ウッ(上等な)シ(鉄)」と呼ばれた。岡山県一帯で上鉄ことウッシ発見ということで金官伽耶のお偉方が吉備に詰めかけた。上陸港は瀬戸内海ベリの牛窓の地。牛窓湾を囲んで5基の前方後円墳がある。「うしまど」はウッシ(鉄鉱石)マドゥ(迎えるの意のマジュ)。牛窓一体に原料を確保し、吉備(ギビ=長刀)の平野で鉄刀は作られた。
即位後の文武天皇は、この金官伽耶の地、吉備をくまなく抑え、その後孫たちに与えている。上等の鉄が発掘され、長刀が相次ぎ製作されるようになると半島南端の金官伽耶本国の都金海とどちらが都か、疑われるような状況になった。当時力を養い続けていた新羅が「指をくわえて」見ているはずがない。新羅の蠢動がここに始まる。当時の新羅王は第22代智証王である。智証王は500年64歳で王座につき、514年に亡くなったとされているが、先代炤知王代後半の相当期間、王職を代行している。
智証王の名前は「至都蘆」「智度路」「智大路」「智哲老」、すなわちジドロは「王呉れろ」の意なのだ。その名の通り、智証王はクーデターで政権を手に入れた。智証王の王陵は、天馬塚と呼ばれている。発掘品の中に白樺の樹皮に空飛ぶ天馬を描き上げて作った乗馬用の泥除け=障泥(ジャンニ)があったからである。
智証王は新羅に残っていた殉葬の習慣を502年に禁止し、503年国号を新羅に統一し、君主号も王に統一した。