88 7世紀日本の凄絶な覇権争い

2024年04月28日 14:29

天智は暗殺され、天武の謀反も失敗した

 7世紀日本の朝廷には凄絶な覇権争いが絶えず繰り広げられていた。天智、天武、鎌足の虚虚実実の戦いはその最たるものであった。その結果天武は天智に勝ち、天智は鎌足に勝ち、鎌足は天武に勝った。天智は結局天武に殺され、鎌足は天武の子不比等を天智から強制的に貰い受け、世界に類を見ない日本きっての名門貴族藤原氏繁栄の基礎を築いた。
 鎌足は天智8年10月16日、病死した。死に先立つ10月10日、天皇自ら内大臣の家に行き、見舞っている。鎌足は当時56歳だった。この天皇は天武本人を指す。この時天智は天武によってすでに暗殺された後だからである。
 天智8年5月5日の天智紀に、天武の狩りに関する記述がある。山科の鹿狩りである。これを口実に天武と鎌足は共謀して天智を射殺し、クーデターを企てた。しかし、天智は即死せず、鎌足も落馬して大怪我を負う。クーデターは失敗に終わったのだ。万葉集2-148の天智妃倭皇后の歌は、天智が「青に殺られた」と言って息絶えたことを証言した歌である。鎌足はこの時の怪我によって下半身付随の寝たきり状態になり、5ヶ月後に感染症で亡くなった。
 鎌足は百済の大沙平(大臣)沙宅智積その人であり、初めは斉明、天智側にあったが、同母妹間人との近親相姦から抜け出せぬまま、世間から見放されつつあった天智に見切りをつけ、天武と同盟を結んだ。柿本人麻呂は鎌足の孫であるが(父は貞慧)、天武朝廷に仕えるため新羅から来日したときは盟友の孫を迎えて天武はとても喜んだという記述が『日本書紀』にある。

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