伽耶の童舞「唐子踊」。491年金管伽耶が滅亡するまで、この童踊が存在していたことは確かである。562年新羅智興(チヌン)王によって大伽耶が滅亡し、伽耶時代はその幕を閉じる。文書に見える初見は、新羅第30代文武大王8(668)年9月25日条であるが、相当以前から伝えられている稚児舞が朝鮮時代まで連綿と受け継がれ、朝鮮通信使の手を経て日本に渡り、日本人の手によって今日まで命脈を保ってきた事実に驚嘆せざるを得ない。
「唐子舞」は岡山県の牛窓で行われてきた行事である。「牛窓」は「ウッシマドゥ=上等な鉄鉱石を掘り迎えた地」だった。上質な鉄の塊が発見された幸運の地だったのである。牛窓で鉄の塊が発見されたと聞いて、韓半島の南端金官伽耶から鉄作りの集団がどっと牛窓に押し寄せ、鉄鉱石を掘り出したであろうことが 「唐子踊」の歌詞から絶妙に救い出される。「カーンエー(掘り起こせ)」がそれである。
これに続く「エイソエイソイ」は「唐子えぐり出せ、えぐれえぐれ」と訓める。歌詞の最後のフレーズ「ハアーアーワソーオオーオモ」は鉄穴から帰ってきたものと作業場にいる者との間で交わされる挨拶の言葉を表している。 「はぁ帰ってきました(ただいま)」「お!来なさい(お帰りなさい)」。韓国語の挨拶が全く変わってないことに驚かされる。