飯豊青皇女(=阿於皇女)は天智と鏡王女の間に生まれた双子の娘の姉である。一時元正天皇として皇位にも就いた。しかしすぐに妹の元明天皇(=阿閇皇女)と藤原不比等との間に生まれた娘つまり姪(氷高皇女)にすり替わった。即ち元正天皇は2人いる。阿於皇女を元正A、氷高皇女を元正Bとする。飯豊青皇女=飯豊王女=元正天皇について次のような学説もある。
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飯豊王女
飯豊王は2人いたという説がある。つまり系譜上での「履中天皇皇女説「市辺押歯王王女説」はどちらも正しく、履中皇女と履中皇孫は別人で、両者は叔母と姪の関係であったという説である。門脇禎二の説と若井敏明の説とがある。両説のちがいは、門脇説では叔母の方は青海郎女、姪の方は忍海郎女・忍海部女王であり、ともに同じ「飯豊」という別名を与えられている(「青海」がつく方が叔母(皇女)で、「忍海」がつく方が姪(王女))。これに対し若井説では、叔母(皇女)の方は「青海」「忍海」であり忍海部や飯豊ではなく、姪(王女)の方は「忍海部」または「飯豊青」であり忍海や青海ではない(「忍海」の2字が共有されているが、叔母は「部」の字がつかず、姪の方は「部」の字がつく)とする。このように同じ2人説でも、その2人の名前のちがいをどう考えるかは説が分かれている(叔母が「青海郎女」で姪が「忍海部女王」であることは両者共通、「飯豊」と「忍海」について見解が分かれる)。
若井説によれば、「叔母の青海皇女は、後継をどうすればよいか諮問されて飯豊女王を指名しただけで、青海皇女は執政はしていない。一方、姪の飯豊女王は執政はしたが諮問に与ったのではなく、青海皇女の指名に基づいて飯豊女王が執政したのである」という。また青海郎女は巫女というわけではなくて、単に皇位継承問題の対策を諮問されて、飯豊王の名を回答しただけであり、神託というようなものとはみなしていない。また忍海部(青海郎女の部民)と忍海宮はもともと青海郎女のもので、「市辺押歯王が殺された時に飯豊王女は叔母の宮に身を寄せたのであり、男子と関係をもったという伝承も姪の飯豊王女の方」とする。
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万葉集1-80歌は元正天皇の藤原京を捨てず、平城京と藤原京を行き来するという固い決意を歌ったものである。1-79歌の長歌において「之」が4回、「乃」が9回使われている。暗号である。「乃之乃乃乃之乃乃乃乃乃之之」「ネガルネネネガルネネネネネガルガル」「我双子我我我行く終始終始我双子行く」。元正Aは双子の妹元明の「一緒に遷都しよう」という誘いに「我行かむ」と答える一方で「ネネ(終始)我行かむ」と釘を刺している。
「終始行くこと」につながる。奈良に定住せず、明日香から行ったり来たりする、という意味である。明日香にこれほどこだわる元正Aの執念の芯は
一体何だったのか。
「朝月夜清尓見者(あさづくよさやかにみれば)」--------失火で焼けた船(枯野)を薪にして塩を焼いたところ、焼け残った木の塊があった。応神天皇(文武)がやけ残りの木で琴を作らせた。その琴の音がさやかであった。------元正Aは「さやか」という美しい調べの語を使いながら文武を思い出していたのではないか。文武と持統が作った藤原京は、国家の首都として都城制を敷いた最初の都市で、649年から710年までの16年間続いた。持統は703年、文武は707年に死んだ。持統の死後、晩年の文武を支えたのは飯豊青皇女だったのではないか。