天平12年(740)9月3日、藤原広嗣(不比等の孫。宇合の子)は太宰府を動員、反乱を起こす。天平9年(737)、朝廷の政治を担っていた藤原4兄弟が天然痘の流行により相次いで死去した。代わって政治を担ったのは橘諸兄であり、吉備真備と玄昉が重用されるようになり、藤原氏の勢力は大きく後退した。天平10年、太宰少弍に任命された広嗣は左遷と感じ、反乱を起こしたのだ。壬申の乱(672)以来の大内乱だった。ところがこの乱の最中10月26日、聖武天皇は「思うところがあって当分の間、東(伊勢・美濃)に行ってくる」と告げ、早くも29日出発してしまう。藤原一門の氾濫を逆手に取って、これを機会に権力の根源である「鉄」の大奪還ドラマを展開、見事に成功した。
天皇聖武の権限は藤原一族の意のままにされていた。それがこの時点から逆転したのである。大伴家持は「鉄磨ぎ場を掌握しに行きましょう」と聖武に勧め、聖武は「恋人持統をぐるにして持統の子草壁まで殺して手に入れた文武の鉄の地を、そっくりいただこう」と答えている。優柔不断な天皇と思われていた聖武の真の姿は、自信と信念に満ち溢れた姿だった。恭仁京、紫香楽京、難波京、平城京と彷徨ったとされてきたが、実はこれらの地はすべて鉄どころであった。これら一連の鉄の場奪還行動には指導者がいた。万葉歌人の山上憶良である。憶良は聖武の先生だった。憶良は「穢の奪われた地を取り返せ」とはっぱをかけ、聖武は「かつて奪われた穢の地を、いま天皇である自分が取り戻す」と宣言している。天平14年(742)、近江の国司は志貴親王家の鉄を丸ごと取り上げる命令を下している。