紀元前3世紀から起元1世紀にかけて、農業技術とともに韓半島南部より日本に押し寄せる主に伽耶、新羅およびその前身の部族国家群の人々。1世紀前後に相次いで建国した高句麗、新羅、伽耶、百済およびその前身の扶餘、馬韓、辰韓、弁韓など古代国家の誕生は、これらの地に先住していた人々を追い出すことになる。先住民、特にその上層階級の者たちは、海を超えたすぐ向かいの暖かく豊かな日本列島へと雪崩を打って避難し続けた。
その後高句麗の広開土王によって打撃を受けた百済から4世紀日本への大量渡来。さらには7世紀の百済と高句麗の滅亡による日本への集団亡命があり、その必然的結果として日本語に韓国語の形跡を深く残すことになった。それが8世紀前半に大部分編纂された『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、『万葉集』、が古代韓国語で読める所以である。また純日本風の言葉こそかえって純韓国風の言葉であるのは、一見アイロニーだが、至極当然と言える。例えば「ひねもす」はビネモッシ=光のある間ずっと、「あくたいもくたい」は、アグタイメェグタイ=タマなし男の女なし男、の意のひどい悪口だ。地方の方言は、古代の言葉がそのまま残ったものであることが多いが、岩手の方言にもあくたいもくたいという言葉が残っている。ちょっと東北弁風に訛って「あぐでもぐで」という。意味は「とんでもない悪口」だ。まだある。「シットギ」は古代韓国語で「神への供物」。岩手の郷土菓子に「豆しっとぎ」がある。枝豆の粉を固めた甘く香ばしいお菓子だ。岩手のわらすっこ(子供たち)は「あんぎあんぎしてたべるんだじぇ」と親に言われて育ったが、古代韓国語の「アギィ」は「噛むこと」でそれが「顎」になった。