昭和の終わり頃、高校教師を対象にした県の歴史部会の研究会があり、「聖徳太子は存在しない」という研究発表があった。小さい時からお札といえば聖徳太子、聖徳太子といえば1万円札と、身近にいつも聖徳太子がおりその実在を信じて疑わなかったので大変驚いた。その後しばらくしてタイミングよく小林惠子著『聖徳太子の正体』が出版され早速読んだ。小林先生は聖徳太子は突厥王子の達頭(ダルトウ)その人であると推論されておられた。聖徳太子は赤毛だった、ベッドに寝ていた、牛乳やチーズが好物だった、法隆寺の夢殿の八角堂の形は遊牧民のゲルと言われる移動式テントの形から連想されたものである等々聖徳太子をめぐるエピソードはどれも日本人離れしている。そもそも聖徳太子の厩戸王というもう一つの呼称は、馬小屋で生まれたイエス・キリストを髣髴とさせるし、古代のユーラシア大陸は思いのほかボーダーレスな行動圏だったのではないか。金官伽耶国の建国者金首露(キム・スロ)はインドの王女と結婚しているし、ネストリウス派のキリスト教は、景教と呼ばれて中国の唐で大流行している。
一方、日本で初めて天皇を名乗ったのは天武天皇=淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)である。韓国SBSで2006年7月8日から2007年6月17日まで放映されたドラマ「ヨン・ゲソムン」によると「・・・ヨン・ゲソムンは高句麗の貴族ヨン・テジョの長男として生まれたが、国内の権力闘争に巻き込まれ、叔父の刺客に命を狙われ、隣国新羅に逃れる。金官伽耶滅亡後、新羅の貴族に編入されていたキム・スロ直系の子孫キム・ソヒョン(大将軍キム・ユシンの父)によって表向きは下男として育てられたヨン・ゲソムンは15歳の時キム・ユシンの妹宝姫と結ばれ、宝姫が身籠ったので新羅を追われ、奴隷に身を落とす。しかし中国唐に渡り宦官である大商人に救われやがて中国で巨万の富を得たのち高句麗に戻り、クーデターで高句麗王と宰相である叔父を殺して大莫離支(大将軍であり宰相)の地位に就いた。中国隋の煬帝は高句麗支配を目論み幾度も高句麗遠征を試みるも失敗、遂に国を滅ぼしてしまう。次の中国王朝唐帝国2代皇帝太宗も大軍を率いて高句麗を襲うが、安市城の戦いでヨン・ゲソムンによって散々に打ち負かされた。太宗はその戦いにおける大怪我がもとで数年後亡くなった。・・・」。ヨン・ゲソムンは668年の高句麗滅亡後、日本統治に専念し、天智を暗殺、壬申の乱に勝利して672年61歳で天武天皇として即位した。聖徳太子は赤毛、ヨン・ゲソムンも赤毛赤髭、天武天皇も赤毛赤髭。当時大陸、韓半島、日本列島を股にかけて活躍した超一流の国際政治家だったヨン・ゲソムンであれば聖徳太子のイメージの中心部にいても全然おかしくない。突厥王子まで飛躍せずとも聖徳太子のモデルの一人は天武天皇のなかに見つけることができよう。