3 斉明天皇のブレーンであった額田王

2020年12月11日 09:41

万葉集1−8   額田王

歌意
 誰のせいであろう。船に乗ろうよ、皆の物。なだめられ、嫌々ながらでも行くと見える。今こそ漕ぎ出そうではないか。

 防人たちをなだめすかし、出兵まで漕ぎ着けたのは誰か。大海人皇子(天武天皇)である。斉明天皇7年(=百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされた翌年の661年)正月6日。百済救援の船団が、筑紫に向かって出発した。14日、船は伊予の熟田津の石湯に泊まった。白村江の戦いは日本の惨敗。2万7千人の防人たちが戦死した。この戦いを強行した中大兄皇子(天智天皇)に対する怨嗟の声は国中に満ち満ちた。
 中大兄は百済王子翹岐(ヒョーギ)。斉明天皇(=皇極天皇。中大兄の母で百済武王の妻寳王女)、中大兄の双子の同母妹であり妻の間人王女、異母妹であり妻の鏡王女、斉明のブレーン額田王(後に中大兄の妻となった)はともに百済最後の王義慈王に追放され、日本に亡命した。

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