いろいろな難事にあたり、神文王は笛を吹き、日本にいる父に援助を依頼した。これが「萬波息笛」という不思議な「笛吹き」の真相である。中には「萬萬波波息笛」と言われた依頼もあった。最高難事の解決にあたり用いられた表現である。ヨロヲヨロヲバスムビリと読まれる。これこそ新羅吏読の典型的書かれ方と言えるだろう。
『三国遺事』に登場する、この「萬波息笛」のくだりを韓国の学者たちがまともに解読できなかった理由がここにある。「神文王にまつわる文武、および金庾信の息子たち」の動きを「萬波息笛」を通してあらわす『三国遺事』のこの下りこそ、まさに絶妙なメタファ(隠喩)である。
「萬波息笛」の主人公神文王は苦労を重ねた王であった。祖廟に致祭した神文王は祭文で「戦々恐々とすること深い池に足を踏み入れるが如し」と哀訴している。日本に亡命した文武大王がこの訴文に気を遣わぬはずもなく、その結果、龍神と天神「萬波息笛」が登場することにあいなったものと思われる。
神文王は治世12年目に亡くなっている。その後を継いだ長男孝昭王も短命で、治世11年で終わっている。最高難事=「萬萬波波息笛」の話は孝昭王の時代(693年)の出来事として『三国遺事』巻3「栢栗寺」の条に記されている。文武は孫の代まで新羅救援を続けていたものと思われる。
浦項(ボハン)の港は「迎日湾(トヲンイルマン)」と呼ばれている。「日の出を迎える港湾」の意で、早くからこのように呼ばれてきた。元旦には今でも日の出を迎える多くの人波で海辺は埋まる。港の古名はクンオギ=大きな港。来るところ、来ることを表すオギがそのまま日本語の「沖」になっている。迎日湾から出入りした古代の人物は少なくない。まず2世紀の天之日矛こと延烏郎・細烏女夫婦。小人とされる少彦名(スクナヒコナ)こと新羅の第4代王昔脱解は逆に日本からクンオギにやってきたケースだ。新羅文化が華麗に花開いた時代。新羅の都徐羅伐は人口100万を超える繁栄を謳歌した。徐羅伐と大港浦項は目と鼻の先にある。港は文化を開く。