絵ピソード14

その79

✴️万葉集14ー3374    武蔵国歌

 お城が群れをなしている大平野です。占い師がお城を廻り、鹿の肩焼きで味方を募っています。「ほら!あなた様も一味ですよ!占いにはっきり出ています。」お城の主は戦いなんぞ大嫌い。でも、占い師は平気です。占いにかこつけて武蔵野を行きます。味方を集めているのです。

[東歌には二本の大きな柱があります。第一は天武・持統の国盗り、すなわち壬申の乱に先立つ東国勢力の糾合です。もう一つは称徳=孝謙と道鏡の国造り歌です。都での政争に敗れた称徳は、河内の由義宮から脱出して海路東国に向かい、道鏡は陸路であとを追いました。下野こと栃木県に残る称徳・道鏡の伝承の多さに驚きます。武蔵野は「ムッジャシノ=多くの鉄城が群れなす野」という言葉。武蔵野は鉄と馬と銅に恵まれた地で、称徳と道鏡は武蔵を手に入れる必要があったのです。]


✴️万葉集16ー3878

  熊来の海に  新羅斧を落とし、大工慌てて慌てて  「 弁償せにゃならぬ。 浮かんできて、わしをたすけておくれ」。  沈んだ(水死した)大工。

[熊来の海は高句麗人のくる海。外の者を着ける、外の者が着く、の意の「バシダテ」という枕詞が熊来の海につくのは当然のこと。七尾湾や富山湾、若狭湾を含めて出雲、敦賀、新潟などにつながる日本海沿岸一帯は、昔も今も、北との航路を結ぶ重要なガタ(端の地)です。万葉集の従来の訓み下しはまるでお化け。本来の万葉集はこんな得体の知れないお化けではありません。はっきりした意味をもつ生き生きとした、切実な血みどろの歴史を証言する歌集です。


✴️万葉集16ー3887    作者不詳

  お上をお前は知っているだろう。新羅らはやってくるからさ。
  伽耶の太刀太刀太刀、打ち込んでくるからさ
  山城建てても無駄さ。

 [従来訓は「天上にある、ささらの小野に、茅草を刈っている。その草の刈り場に鶉を飛び立たせることよ」
なにこれ?まったくチンプンカンプン。『万葉集』は、花鳥風月や恋心を、あでやかに詠みあげたもの。また、おごそかな儀式などの歌と、誤読されてきました。そのおかげで、皮肉にも無事生き残った奇跡の史料です。
『万葉集』巻16は「由緒ある雑歌。すべていわれのある何らかの事件と関連する歌が収録されています。この16ー3887歌は、新羅が日本に攻め込んでくる事態、その強力な軍事力、当時の度重なる城砦づくりに疲弊した庶民の怨嗟の声を代弁した、中大兄を批判した歌でしょう。

その80

  ✴️万葉集16ー3888   作者不詳

  来るのだ  まるっきりひび割れて 、 連れて行って  、 列なして連れ出して行って 、  行って敗れて後押しされて、這々の体で帰ってくるのさ 。  大軍引き連れて行くけれど 、 ずらり勢揃いでお出ましだけど 、  行って敗れて追い詰められて帰ってくるのさ、負け戦。

[百済救援の大水軍出陣を批判した歌。死傷者は数知れず、絶望的な状態。中大兄が送り込んだ船団は、百済の白村江(今の錦江の河口、古名は伎伐浦)で唐の軍船170艘と対峙し、2日間(8月27日・28日)の戦闘の末、大敗します。記録によると、日本は2万7千人の兵を送り込んだとありますが、その防人たちのほとんどが戦死しました。]


✴️万葉集16ー3889   作者不詳

 「人」酷い目に合わせよう。「青」息子が仲違い。みんながみんなへそ曲がり。親父を息子が斬るのだと いい漏らしている。用心せよ
(真人をとっちめよう。目に物見せてやるのさ。青と息子がひび割れた。仲違いしてるのさ。誰も彼もみんなへそ曲がりだ。息子が親父を斬ると、仕切りにほのめかしている。用心しろ。)

[何と、この歌は、大津皇子による父王(天武天皇)弑逆事件を予告し警告する歌です。『日本書紀』によると、天武天皇は686年(朱鳥元年)9月病死しています。しかし真相は「政争による暗殺」で、その没年はおそらく682年だろうと推定されます。『書紀』は、朱鳥元年9月の下りで大津皇子の謀反を記しています。そして10月大津皇子は早くも死を賜わります。草壁皇太子への反逆とされていますが、天皇弑逆の大罪を問われたものでしょう。]


✴️万葉集18ー4071    大伴家持

  品物を包みに行け。越は橘を後押ししてくれ。育ててくれ。勢力の維持、防備、すべて劣勢で不足しているので。

[能登半島一帯の湾岸は、大陸や半島に向けて大きく開かれていた古代の表玄関です。当時の先進文化、特に新羅、高句麗の文物は、この玄関口を経て滔々と日本に流れ込んでいました。8世紀の越には高級舶来品が大いにあふれていました。韓国語の包む(サダ)と買う(サダ)は古代においては同義でした。買うことは包むことだったからでしょう。大伴家持は、冒頭で「越は豊かな国だ」と讃えているのです。越は人里離れた不便な場所だという固定観念は、「しなざかる」と「ひなざかる」の混同にその一因がありそうです。8世紀の初頭、韓国語はもう大幅に日本語化されていたことがり家持の歌からよくわかります。橘は橘諸兄のことでしょう。大伴家持と親交があり、諸兄は大伴家存続のカギを握る人物だったのです。]

その81

  ✴️万葉集19ー4268  孝謙天皇

   この鉄処は、立て続けに鉄集めては積んで置き、夏だと言っては遊んでいるので、私が行って見たところ、鉄吹き、鉄磨きすべて足りない。

[天平勝宝4年(752)夏4月9日東大寺の盧舎那大仏像が完成、開眼供養をしました。孝謙天皇は文部百官を引き連れて、東大寺に行幸、盛大な法会を行いました。この歴史的な日の夕方、孝謙天皇は母光明子太后と共に、藤原仲麻呂の邸宅に行って、そこに住み始めたのです。
  邸に着いた女帝は、まず黄色い葉の沢蘭を一株抜き取り、佐々貴山君に持たせ、迎える仲麻呂ら一同の前で自作の歌を詠ませました。歌のモチーフは「黄葉」。日本語「もみち」の語源は、モッミチ。「行き届かないこと」「及ばないこと」「足りない」の意のモッミチが日本語「もみち(紅葉)」に転じています。日本語は誕生の時点からもうすでに「詩」なのです。]


✴️万葉集20ー4297    大伴家持

  女子叩け。「奪われ」「剥がされ」。手早く溶かせ。早鹿は回りつつ外へ出て行くだろう。高円の野である。

[この歌には題詞が添えられています。「(天宝勝宝5年)8月12日に、二三の大夫等各々壺酒をとりて高円の野に登り、所念を述べて作る歌三首」。家持の歌はそのうちの一首です。初句で、開口一番、「女を叩け!」と詠んでいます。憎悪の一言です。韓国語でヲミナといえば「女」の卑称。家持は、いきなり悪口を叫んだことになります。家持をして、いきなりこうして「悪口」を吐かせた女は一体誰なのでしょうか。元正Bと聖武の性関係を非難した歌が8ー1495ですが、この歌で、家持が責めている女は元正Bの母元明です。
家持はなぜ高円の野に酒壺をを持って登ったのでしょうか。この高円山の裏側に志貴皇子のお墓があります。また、高円山の山麓にある白毫寺も、志貴皇子の没後、元明天皇が志貴皇子の山荘跡を寺にしたと伝えられています。つまり、家持は高円の野に志貴の「供養」のために、酒壺を持って登ったということになります。]

✴️万葉集20ー4516      大伴家持

    新羅咎め、お出しになられる。防禦示す。矢、降り浴びせる。鞆(武具)は、続けて作れ、夜鍋して。

[天平宝字3年(759)、正月一日の『続日本紀』には、時の天皇淳仁が太極殿で、高麗(高句麗の後身である渤海国のこと。今の中国東北部一帯に勢力を広げていた)国王大欽茂(渤海第3代王、位737〜793)の国書を携えてきた使者揚承塵らを謁見した記事が見えます。当時の東北アジアは混乱していました。唐では安史の乱が起こり、渤海は日本と組んで新羅を圧迫しようと画策していました。新羅の聖徳王(文武天皇の孫。役行者の娘、いわゆるかぐや姫を妃としましたが、のちに離婚しています)は即位元年(742)、既に日本国使の「来朝」を拒絶しています。日本と新羅の間は、先の見えない状況だったのです。家持は「新年」の二字で「新羅咎め」「新羅討伐令」を表しているのですから驚きます。
  従来訓では、「新」一字を無理やり「新しき」と五字に引き伸ばし、「年のはじめの初春の」と続けていますが、「初春」とは「新年」のことです。同じ言葉を二度続けるほど、新年を強調したかった?
  家持の先祖は、鉄づくりに長じた穢系の伽耶人でした。古くから山陰地方は、新羅式の鉄づくりが盛んでした。万葉集の最終歌20ー4516が詠まれた時、家持は42歳。68歳で死去するまでの26年間、政争に巻き込まれながら、家持は何を思っていたのでしょうか。『万葉集』は「日本国誕ー独立」の裏舞台を余すところなく見せる歌の歴史書でした。これ以上集める必要がなくなったとして20ー4516歌を最後としたのではないでしょうか。家持は、20ー4516歌で、時の朝廷の「新羅との決別」を代弁していたと言えるでしょう。当時の日本は新羅と袂を分かち、唐とも決別しようとしていました。日本は「日本」として独自の道を歩み始め、平安時代という華やかな国風文化の最盛期を迎えます。

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