絵ピソード

その13     1968年11月7日、ついに私の大学は全共闘の学生180名によってバリケード封鎖されました。5月にフランスで起こった学生たちによる五月革命以来、世界中で学生運動の嵐が吹き荒れており、日本でも全国各地の大学が学生によって占拠されていました。なのでびっくりはしませんでしたが、ついに来たかという感じでした。紆余曲折の末、大学側は12月21日午前6時過ぎに機動隊を導入、ロックアウトすなわち臨時休校という措置をとりました。休校中、大学側は様々な改革を進めることを学生に約束し、休校から108日間たった1969年4月7日の入学式から大学は正常化しました。しかし学生運動は収束することなく、各大学から街頭に出て全国的な組織がいくつも生まれ、過激化していきました。
     結局私の大学生活一年目は、パトカー事件に始まりロックアウトに終わるという予想もつかなかった波乱の連続で怒涛のように過ぎ去りました。

その14     1969年、大学2年生の7月、友人達と4人で沖縄に旅行しました。沖縄はアメリカだったので、パスポートを取り、円をドルに変え、予防注射をして出かけました。東京の晴海埠頭から船で3泊4日、沖縄は遠かったです。学割二等の船底にいたので、沖縄に到着して船を降りる時は、その眩しさに頭がクラクラしました。沖縄はとても暑く、文字通り滝のような汗をかきながら、あちこちに行きました。沖縄の南端、摩文仁岬では、沖縄戦の悲惨を思い知りました。ひめゆりの塔、健児の塔、牛島中将自決跡などたくさんの戦跡と、各都道府県の沖縄戦戦没者の慰霊碑がずらりと並んでいるのを見た時は、胸が詰まりました。誰が備えたのでしょう、岩手の塔に真新しい花束が、、、、。沖縄県民の3人に1人が亡くなったという沖縄戦。しかも互いに刺し違えたり、手榴弾で集団自決したりという無念の死が多かったといいます。1945年4月30日、ヒトラーは愛人エバ=ブラウンとともに自爆し、ドイツは降伏しました。イタリアもドイツに先立って降伏しています。その時日本も降伏していれば、沖縄戦は無かったのに、、、広島、長崎への原爆投下も、日本人捕虜のシベリア抑留も無かったのに、、、、、。
    沖縄の米軍嘉手納基地。鉄条網の中はアメリカでした。綺麗な芝生に広いプール。金髪の母と子が楽しそうに遊んでいます。中をのぞき込んでいる私たちを見て、見知らぬおばさんが話しかけてきました。おばさんの夫が嘉手納基地のPXで働いているから、基地の中を見せてあげるとのこと。私達は喜んでジープに乗って基地内を見せてもらいました。B52という真っ黒な戦闘機が林立しているのを見たときは思わず息を呑みました。ここからベトナム北爆に飛んでいくのだとか。見学が終わっておばさんと別れる時、私達は「早く日本に復帰できればいいね」と言いました。そうしたらおばさんは首を振ってNOという仕草。私達は驚いて、「えっ、このままアメリカ領でいいの」と聞くとおばさんはつよくNOと言いました。そして、おばさんの答えは「独立したい」というもの。私達は心底びっくりしました。それとともに、1609年の薩摩藩による琉球征伐以来の日本による支配に苦しめられてきた沖縄の歴史を思って沈黙しました。

その15     時が経たないとわからないことがあります。「ベトナム戦争反対」「安保条約反対」「東大解体」など当時の学生運動が掲げたスローガンは、ベトナム戦争反対はともかく、政治に無知な大学2年生にはわからないことが多かったのです。しかし2019年の今ならわかります。あの当時の学生の主張は間違いではなかった、と。少なくとも、当時はおかしなことはおかしいと、学生でも主張できる真っ当な時代だったのは間違いないと思います。
   今はどうか。平成30年=失われた30年で、一億総中流社会が、雪崩を打って瓦解し、かつてない格差社会が到来、子供の6人に1人は貧困といわれる緊急事態となっているにもかかわらず、消費税を上げるという近年にない悪政に、誰も抗議しないという体たらくになっています。ゲバ棒に火炎瓶、そしてジグザグデモというあの時代の抗議活動はできなくても、平穏に物申す請願権は国民に等しく保証されてるのに、請願権どころか選挙権すらも行使しないという異常な社会になっています。
   マスコミの政権に対する腰抜けぶりも甚だしく、国連人権理事会特別報告者デビット=ケイ氏に「日本のメディアの独立性」を疑問視され、「日本政府の勧告未履行」を批判されるという恥ずかしい現実になっています。これは「日本はすでにファシズム化してるんじゃないの。世界は心配してるよ。」と言われているに等しいことです。

その16     大学改革の一つとして、私の大学では転部ができることになりました。そこで心機一転、3年生から法学部に転部しました。法学部の3年目、つまり大学5年生の時、あと4単位取れば卒業というところにこぎつけました。4単位ではヒマすぎると思い、社会科の高校教員資格を取得することに。このことが、私の人生を決めることになるとは、その時は夢にも思いませんでした。
    大学生の時に、様々なアルバイトをしましたが、一番大変だったのはデパートの食堂のウエイトレスでした。お客さまが引きも切らず、全く息を抜けません。一日中重いものを持って歩きっぱなし、大変な重労働でした。逆に時給がとんでもなく高く楽チンだったのは、広告代理店の下請けの路上アンケートでした。質問は10個ぐらいで、まず最初に聞くのは「アイラッシュを使ったことがありますか」。アイラッシュとはつけまつげのことです。歌手の和田アキ子などはバサバサと音がするほどのつけまつげをつけていました。そしてこの質問は必ず聞くことと念を押されたのが「イフとエナモーラのどちらの名前が好きですか」というもの。これは何のアンケート?とは思いましたが、とにかくペイの良いアルバイトでしかも簡単です。何ヶ月か経った時、このアルバイトの発注元がわかりました。カネボウ化粧品がイフシリーズという化粧品を発売したのです。化粧品というものはアルバイトにあれほどお金を払っても儲かるものなんだと思い知りました。

その17      ツイッギーをご存知ですか。1949年生まれのイギリス人モデルです。1967年に来日しましたが、その時はすでに年収1000万ドルという売れっ子モデルでした。ツイッギーとは小枝という意味で、彼女の指が細くて小枝のようだということからついたニックネームだそうです。超スレンダーな彼女のミニスカート姿は斬新で、革新的で、魅力的でした。彼女が去ってから、日本の女性は老いも若きもミニスカート一色になりました。私の大学入学式の服装も卒業式の服装もミニスカートでした。何かが流行して日本列島が席巻されるということは度々あります。私の子供時代はフラフープやホッピングという遊び道具が流行しました。抱っこちゃんというビニール製の黒人の子供人形が大流行し、みんながそれを腕に抱きつかせて街中を闊歩した時期がありました。今思えば一体あれは何だったの、と苦笑するしかありません。
   自分に似合おうが似合わなかろうがおかまいなしにミニスカートをはいて、浮かれに浮かれていた私達は、突然頭から水をかけられたように粛然となりました。1972年2月2日、グアム島から横井庄一伍長が帰還したのでした。彼が発した「恥ずかしながら帰って参りました」という言葉はその年の流行語になりました。終戦を知らずに28年間ジャングルに潜伏していた横井さんの存在は、高度経済成長に浮かれていた日本に衝撃を与えました。「生きて虜囚の恥ずかしめを受くるなかれ」という戦人訓に縛られ、「恥ずかしながら」生きて帰ってきてしまったと、頭を下げた横井さん。横井さんは帰ってきましたが、生きて帰るなと言われ、いまなお「水漬く屍」「草むす屍」になって骨も拾ってもらえない戦死者の霊が、アジア中にちらばっていることを横井さんの帰還は私達に気づかせてくれたのです。

その18     1972年3月、大学を卒業しました。ゼミの先生が、法律事務所の事務職、つまりパラリーガルですね、を紹介してくれましたが、お断りしていったん実家に戻りました。あれほど輝いていた東京生活にも、やはり馴染めなかったのでしょう。当時、東京まで特急で6時間でした。東京から帰省する時、福島近くなると車窓から山並みが見えてきます。するとなぜかホッとしたものです。アルプスの少女ハイジが山がない、街の暮らしに、だんだん心を病んでいきますが、その気持ちが良く分かるのです。山登りは好きではありません。岩手山は盛岡にある標高2038mの、南部片富士と言われる山ですが、仕事で5、6回登りました。登って降りて8時間もかかります。仕事でなければ絶対登りません。山登りは私にとって苦行です。しかし、子供の頃から西に奥羽山脈、東に北上山地の山並みを眺めて暮らしてきたせいか、どこかに山が見えないと落ち着かないのです。
    教育実習は母校の中学校で行いましたが、指導教官が優しい先生で、子供達も可愛い。教育免許を取るだけのつもりが、8月の教員試験を受けてみようという気持ちになりました。そうこうしているうちに、青森県にある、共学の私立学校から、10月から1973年3月までの半年間働いてくれないかというお誘いがあり、、、、

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